作品の紹介

October 28, 2015

ブログをはじめたら、アートに見識のない人に少しでもアートの良さを知ってもらうために文章を綴ろうと考えていました。ぼくは文章も上手くないですし、このHPがそんなにたくさんの人に観覧されることは極めて難しいことなのは承知です。せめてぼくがこれまでアートを介さずに出会ってきた友人などに見てもらえたらそれだけでとても嬉しいことだと思います。

が、アートを一から分かり易く説明しようと思うとなかなか筆が進まず、もうブログを挫折してしまいそうなので(笑)、とりあえず自分が書きやすいもの、話しやすい話題から投稿していこうかと思います。

そこで最初の投稿は、このHPに載せた作品のおおまかな紹介から始めます。完全に自分の言葉で綴っているので、アートに関わる人の間だけで使われている言葉などが散見されるかもしれないです。今後はそういった言葉をちゃんと補足しながら、オススメの展覧会の紹介やアートや美大にまつわるあれこれを書いていけたらと思います。

 

今回はとても長いです。だれか読んでくれるかなぁ・・・。

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HPに載っているものは2012年からの作品になります。2012年から2年ほどは日常品や身の回りに生きる動物をモチーフに、「1日でできる作品」「誰にでもできる行為」をテーマとして制作をしていました。当時は美大の講評会での発表のみにとどまり、それゆえに学内の状況のなかでひときわ意味を帯びてくるような作品につくっていました。というのも、私の在学していた武蔵野美術大学では絵画を制作する生徒が大半を占め、彼らは多くの時間を1枚の絵に割き、鍛錬と努力によって自身の作品の質を担保しているように見えました。当時のぼくはその「時間を割く=質が上がる」というベクトルに違和感を持ち始めていたのです。


ぼくは性質として、あるコミュニティーの中で似通った思想や方法が充満していたり、ある場所が1つの意見で埋め尽くされてしまっているときに、まったく別の意見や方法を提示して、凝り固まった思想に揺さぶりをかけたいという欲求があります。これはヨーゼフ・ボイスに強い影響を受けているからかもしれません。そういうわけで学校の状況を見て後出しジャンケンのような感覚でこの時期の制作は進んでいきました。

 

またボイスに影響を受けていることもあって、自身の作品をきっかけとしてもしなくても「凝り固まった思想を融解させるために対話をする」ということを尊重したいと思っていて、学内でのシンポジウムの企画やトークイベントへの参加、とにかく人を呼んで目的もなく話すイベントなどを開催していました。

ただ、学校の状況を踏まえてこのような作品をつくったと書いてみたわけですが、別の見方をすれば、単にそれまで画家になりたいと思って美大に進んだものの、大学に入ってから筆が進まなくなり、ぼく自身が没入できるイメージを失ってしまったことが直接的なきっかけだったかもしれません。絵が描けなくなってもとりあえず別の方法を使ってでも作品を作らないと、自分の道をスタートそうそうあきらめてしまう気がして。

 

そんな状況でも表現を続けていけるにはどうしたらいいのか?と考えたときに、「日頃目にする日常のモノ」と「自分の身体」を使ってなら何か表現できるんじゃないかと考えました。先に「誰にでもできること」を作品のテーマとしていると書きましたが、「特別な技術を要さないものでやりくりすること」しかぼくには残されていなかったというのが本音です。

そんな中で出会ったのが、自身の日常的な身体を使って表現するポストモダンダンスのダンサーたちやフランシス・アリス、丹羽良徳といったアーティストたちです。彼らは自分(一人の人間)の些細な行動がこの社会のあらゆる問題と繋がっているということを教えてくれました。また、現代アートという分野ならどんな表現媒体でもそれが良いモノなら許容してくれるんだということを知ったのも大学生になってからでした。

そんなバックグラウンドから制作されたこの頃のぼくの作品をもう少し説明します。日常品や身の回りに生きる動物をモチーフに1日で制作できるものを作品とすることで、作品と日常を地続きに捉え、また作品を作る上での制作の絶え間ない努力は完全に無視することで、「作品とはなにか?」というを問いを含ませています。それと同時に、ホワイトキューブにゴキブリを放ったり、映像の中の行為を追体験してもらう(霧吹きで虹をつくってもらう)ために展示会場の外に鑑賞者を誘導する指示書を展示するなど、くだらない行為や些細な行為の中に美術の制度に対する言及を潜めています。

自分の作品を学外の人にも見てもらう機会を得たのは、2013年の朝鮮大学校と武蔵野美術大学の合同展示でした。この頃から作品の方向が少しずつ変わっていきます。朝鮮大学校の生徒たちは自分とは圧倒的に違う存在で、彼らは常に自身のアイデンティティーや社会的な立ち位置について思考しつづけなければならないという、逃れられない問題を背負っているようにぼくには見えました。そしてそのことが作品からも滲み出ていました。彼らと話し合い、ともに展覧会を作っていく経験によって、何も技術を持ち合わせていない(と思い込むことでかろうじて作品を作ってきた)自分という存在が、実際には世界の中の1億2000万人しかいない日本人という人種であり、それだけでも意味することがあまりにも大きいということに気付かされました。この展覧会のあとから、自分のルーツを探ることを制作の重要な要素として取り入れていきます。

 

2014年からの作品は自分の家族や先祖の「社会的な顔」に焦点を当て、リサーチすることから作品づくりをはじめることが多くなっていきました。「社会的な顔」というのは、例えばぼくの父はスポーツ施設の施行会社に勤めており、母はガーデニングデザイナーとして花壇の設計などをしています。仕事をしているときの彼らは、家庭でみせる姿とは違う姿で社会に貢献しています。また彼らが実際に社会に施したもののいくつか(国立競技場の走路トラックの開発など)は、大げさにいえば日本の歴史の中に組み込まれているものだと感じています。そういった彼らの職業とその職に対する彼らの思いやエピソードを取材することで「自分と世界との繋がり」を可視化することから「自分と家族と世界」の繋がりを可視化することへ、拡張していきました。

 

 


以上が主に2012年から現在までのおおまかな制作の流れです。その中でも2012年から一貫している特徴が2点あります。

1つ目は、鑑賞者が自身の身体を使ってぼくの作品にアプローチするような仕掛けをつくっていることです。このような仕掛けを取り入れている作品はよく「参加型アート」や「インタラクティブアート」と呼ばれたりもします。この仕掛けを用いると鑑賞者が直接作品に触れることになるため、作品が展覧会の会期中に日々変化していきます。一般的な絵画作品などにくらべ、鑑賞者の反応が目に見える形で表れるとても即効性のあるやり方だと認識していて、これをぼくは「人と人とが対面し会話をしているようなイメージ」として捉えています。ぼくがこれまで作ってきた参加型の作品はどれも参加する/しないは鑑賞者の自由で、さらに参加の仕方もさまざまです。ぼくが発表した参加型の作品をムッと眺めていたお客さんが、作品の概要を説明したら参加してくれた、なんてこともあります。

2つ目は、ぼくが安価な素材やキャッチーな素材を作品に用いていることです。具体的には霧吹きや木炭や練りゴムなどが安価なモノ、ゴキブリや虹、きのこの山とたけのこの里は誰でも反応しやすいキャッチーな素材です。素材選びはこれからの制作で変化していく可能性は大いにありますが、自分の手の届く範囲で制作をやりくりしていくことで、作品の精度やクオリティーよりもアイデアやひらめきに重点を置いているという姿勢を表しています。

ぼく自身の家族のエピソードをモチーフに用いることや、美術内の諸問題に対して言及することは、どうしても鑑賞者を選んでしまうというか、内輪で盛り上がることに終止してしまうものになりがちなのですが、”鑑賞者が作品に参加できる”という形式を採ることで、展示会場に色んな意見や思想が反映されたり視覚化されたりする受け皿の広さを持たせ、どこにでもある素材やキャッチーな素材を用いることでアートの知識のない人々にも作品を見る気にさせるフックというのを残しておきたいと考えています。

 

 


ここまで長々と書いてようやく最近の話になりますが、最近はとくに都外のギャラリーや町おこし型の芸術祭で作品を発表できる機会が増えてきました。そういった展示の中でも変わらずに家族をモチーフといた作品を発表していますが、学外の活動が増えたことで、よりサイトスペシフィックでタイムスペシフィック(そのときその場所でやるべきことをする)な要素も組み込むことを考えるようになりました。


特に近年激増している地域の芸術祭に関しては、そこで発表をつづけている作家の多くが美術的な価値と社会的な要請の間を揺れながら作品制作をしている現状です。ぼくはここに、日本のアートに関しての多くの問題が潜んでいると認識しています。社会的要請というのは、(町おこしを目的としている地域の芸術祭の場合)その町の歴史や風土を関連させた作品を発表することがなんとなく定石とされていて、企画側や芸術祭を支援する行政からもそれを意識させられることがあります。その状況ではアーティストは自身のそれまでの作品と関連させながらもサイトスペシフィックな要素をとりこむ柔軟な姿勢が求められます。また、地域の住民との交流を促す参加型の作品やワークショップ型の作品をつくる作家が芸術祭に多く選出されるのもこの社会的要請という側面を表している、といえなくはないでしょう。

このような地域の芸術祭の勃興によって浮かび上がった問題のなかに自らの身を置きながらも、自分が本当に興味のあるテーマに向かうこと。それが今後のぼくにとって課題になってくると感じています。またそれだけではなく、現代の世界の揺れ動く情勢に心を落ち込ませながらも絶えず自分ができることを模索すること、不特定多数の鑑賞者に鑑賞される展覧会という、学校で教授に作品見せることとは全く違った責任の重さの中で制作を発表することなど、これからは様々な問題の中で制作を続けなければならないのだということを、こうして過去の作品を振り返りながら痛感しています。そしてその中で良い作品を生み出せる人間がプロフェッショナルなアーティストなんだと思います。

 

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